『現代思想』(2007年8月号)粟屋憲太郎/成田龍一(聞き手)「東京裁判とは何か」よりピックアップ:

(成田)「東京裁判史観」という言い方は、いつ、誰が、どのようにして言い出したのでしょうか。


(粟屋)確かには分からないのですが、伊藤隆氏が『思想』で、日本の近現代史研究は「コミンテルンのテーゼ」と「極東裁判史観」だと言い出したのが初めではないでしょうかね。また中曽根康弘首相も85年に「東京裁判史観」に包まれているというようなことを言っています。


それから「新しい歴史教科書をつくる会」の藤岡信勝氏が「東京裁判史観」批判を始め、あそこに集まっている人たちが、前提としてこういうものがあるのだと言い出すわけですよね。


先ほど述べたように、「東京裁判史観」というのは検事・判事・判決の歴史認識だと思います。判・検事側の歴史認識は実際に見てみれば、日本人と日本の戦争指導者全てを告発しているわけではなくて、犯罪的軍閥とそれに追随した官僚を裁いたのであり、むしろ外務省の高官や財界人には責任がないという形を取っていた。


国民にも責任がないと言っている。「東京裁判史観」とはむしろそういうものなのですよ。彼らは意図的に、「東京裁判史観」で全てが規定されていると言うわけですが、そんなことは全然ないのです。戦後歴史学も一時期は東京裁判に影響を受けていましたが、それに規定されているということは、もう随分前からありえないんじゃないですかね。


戦後歴史学というものがあり、それと対立するものとして歴史修正主義があったときに、それが「東京裁判史観」という形で戦後歴史学を名指しするようになったのは、割と最近のことではないか、ということです。


(粟屋)東京裁判を語る人は非常に多いのですが、一次資料を探して、東京裁判の歴史像を再検討する研究者は今、日本に10人もいないですよ。


(粟屋)「勝者の裁き」論というのがあるでしょう。一方的に裁いてけしからんと。ところが東京裁判の過程では−−昭和天皇免訴が典型的なのですが−−、水面下で日米合作で行われたことが結構ある。これはドイツではなかった。日本の場合は色々と免責されることがあったわけで、そういった意味では日米が共謀していたという点は落とせないですよね。

(by pick-up)免責の結果、日本の政権は米国の傀儡になってしまった。