慰安所と旧日本軍/従軍慰安婦/秦郁彦/河野談話(4/7から再録)

『諸君!』(2007年5月)幻の「従軍慰安婦」を捏造した河野談話はこう直せ!(秦郁彦)よりピックアップ:


この文章で秦郁彦は、元慰安婦・李容洙の証言のブレを取り上げて、それが信用できないとしている。


また慰安婦募集の新聞広告に関して以下のように書いている。

新聞広告を眺めてみよう。募集人が民間人、行き先が軍の慰安所であることに疑問はないが、軍の「要請」かどうか不明である。軍が前借金まで負担したとは考えられぬから、業者の売りこみから始まったのかもしれないし・・・


高給に惹かれた女性たちが続々と応募してきたはずで、リスクの多い「強制連行」に頼る必要がなかった証左にもなる。


(by pick-up)証言のブレの分析も必要かもしれない。しかし、強制はなかったとか、旧日本軍や国に責任はないという右翼言論人の主張は鵜呑にはできない。


鉱山労働でさえ、朝鮮人や中国人の強制労働があったこと。性的なことについては被害者、とくに昔の儒教道徳の強い朝鮮人女性には証言するのが苦痛であること。軍部が民間人に売春施設を作らせようとしたが応募する売春婦がいなかったという話が『断腸亭日乗昭和13年8月8日の記述にあること。


靖国神社に獄死した戦犯の慰安所経営者が軍人ではないのに合祀されていること。民間がやったといっても、それは軍が依託したもので軍に責任があること(アメリカがイラクで軍の民間へのアウトソーシングをしているが、誰も民間がかってにやっているなんて思わない)。


秦郁彦でさえ元慰安婦・李容洙が、『ただ働き』ではなかったかと推測していること。軍国主義の日本では中国人や朝鮮人などに対する差別意識が強かったこと。秦郁彦でさえ旧日本軍が悪質でレイプ殺人をよくしたと書いていること。強制されたと証言する元慰安婦秦郁彦が取り上げた人だけではないこと。


軍がオランダ人女性をジャワのオランダ民間人抑留所から直接連行して慰安婦にした事件もあったこと。


以下は、軍部が民間の業者に将校用の売春施設をつくるように働きかけた話を永井荷風が『断腸亭日乗』に記録した部分からピックアップしたもの:

売春婦三四十名を募集せしが、妙齢の女来たらず。かつまた北京にて陸軍将校の遊び所をつくるには、女の前借金を算入せず、家屋そのほかの費用のみにて少なくも2万円を要す。軍部にては1万円くらいは融通してやるからぜひとも若き士官を相手にする女を募集せよといはれたれど、北支の気候あまりに悪しきゆえ辞退したり。


(by pick-up)秦郁彦の希望的観測とは逆に、軍が主導していることは明らかだ。秦郁彦が書いたように新聞広告で簡単に慰安婦が集まるなら、秦郁彦も存在を認めているオランダ人強制連行は、なぜリスクを犯して行われたのだろうか?希望的観測で被害者の証言を否定するなんて事してはいけない。


コメント:週刊金曜日(2007/4/27)によれば、4月17日、「日本の戦争責任資料センター」の林博史東京裁判に提出された資料7点を公表した。インドネシアのモア島での事件の旧日本軍の指揮官への尋問調書には、6人の慰安婦のうち、5人を強制連行したことを認め、「憲兵隊襲撃への報復。襲った住民の娘を無理やり慰安所に入れた」という証言がある。


コメント:「占領地の日本軍は現地で自活できるようにしなければならない」、「日本内地より一厘も金を出さないという方針の下に戦争をするべきである」というのは、石原莞爾が1928年に陸軍内のグループ(木曜会)で主張した方針だ(『昭和期日本の構造』筒井清忠)。実際、旧日本軍は十分な補給を受けず食料を現地で強奪した。そんな軍隊が、慰安婦だけは全く強奪をしないで、全ての慰安婦に本当に使える金を支払ったなんて考えられない。


コメント:慰安婦強制について証拠文書がないと言い張る人がいる。しかし当時の警察関係者は「吉原等の公娼関係でさえ、文書にはめったに残さなかった。ましてや、法に定められたこと以外のことは、売春関係はほとんど口頭の命令だった」(『敗者の贈物』ドウス昌代)と言っている。その上、日本は終戦時大量の公文書を廃棄した。文書がないから「やらなかった」なんて言えない。逆に考えれば、慰安婦は全て強制ではなく売春だと主張したいならば、最低限、国家予算に兵隊の買春代金が相当な金額で措置されていたと公文書で証明すべきである。


コメント:軍がオランダ人女性をジャワのオランダ民間人抑留所から直接連行して慰安婦にした事件について、軍司令部の命令で解放され慰安所が閉鎖されたと秦郁彦は書いているが、これはウソであるらしい。関連記事は(2007-7-7)のpick-upに引用してある。


コメント:朝鮮人の炭坑などへの強制徴用について、TBSラジオ(2015年5月9日)でコメンテーターをしていた小西氏は、日本人の生徒や学生の勤労動員と同じようなものと思い込んだ発言をした。これらは全く別の枠組みで行われたものであり、質的に異なる。私の父は戦争末期に教員として子どもと工場に通ったが材料がなくて日向ボッコだったという。一方、炭坑の朝鮮人は重労働で、不平を言ったり逃げたりすると袋叩きにされたり殺されたりした。参考『ドキュメント日本人8』学芸書林(昭和44年)。