『角栄失脚 歪められた真実』徳本栄一郎/光文社/2004年よりピックアップ:

ロッキード事件を調査した元・チャーチ委員会のレビンソンの証言。

われわれの調査が進むにつれ、情報機関員と名乗る人物からの電話が増え始めた。ハワイから電話してきた人物は、自民党を作ったのはCIAであることを教えてくれた。


後に外交委員会の幹部は私に、自民党を作る過程で、いかに米政府が巣鴨プリズン出身者を利用したかに触れるのはまずいと言ってきた。


『ヤクザ』ディビット・E・カプラン+アレック・デュプロ/第三書館/1991年よりピックアップ:

児玉誉士夫は1911年福島県で生まれた。最初、社会主義に傾倒したが、超国家主義者へと変貌していった。


敗戦の時、34歳の海軍少将になっていた児玉は、総理大臣である東久邇宮の参与として日本に帰ってきた。1946年、逮捕され巣鴨拘置所に送られて尋問された。しかしながら、他の超国家主義者と同様、裁判にはかけられなかったし、告訴されることもなかった。


当時、共産主義の亡霊にとりつかれ始めていた参謀第二部に対して、自分の資産と左翼に関する自分が持っている情報を共有しようという取引を提案した。児玉の釈放にはこの取引がからんでいたようである。


逮捕に先立って、児玉は財産の相当部分を戦犯容疑者では2番目に金持だった辻嘉六という有力な右翼に委ねていた。そのカネが、日本でその後35年にわたって児玉と保守与党との間に存在することになる緊密な関係を築いたのであった。1955年に、自由党民主党と合同して自由民主党、つまり自民党となった。その時点から20年間、児玉は自民党内で1個人としては最も力をもった人物であった。


1949年に、CIAは日本での諜報活動を引き継いだ。CIAがコルシカ・マフィアを利用したのと同じ様に、占領軍はヤクザと超国家主義者を使うことによって、日本の左翼を守りの態勢と均衡状態にしておくことができたのだ。


アメリカ当局によって、右翼とヤクザに与えられたカネ、優遇、特権をともなう関係がその後続くことになる権力の腐敗構造を作ったのだった。


児玉や笹川の名前は、日本の政治の暗黒部分を意味するようになった。二人とも自由民主党に絶大な影響力を発揮し、閣僚ばかりか内閣総理大臣の指名にさえも発言権をもつようになった。児玉は巣鴨の第三権力・岸信介を首相に指名したのも同然であった。


岸が権力を持つにいたった基盤は、満州国にあった。1936年から1939年にかけ岸は満州国では文官として公式的には第二の高官の地位にあったが、“満州国の統治者”と呼ぶ者もいた。


満州を離れた後は、東条軍部内閣の商工大臣そして国務省軍需省の次官を務めた。岸はA級戦犯として捕えられたが、奇妙なことに釈放された児玉や他の戦犯と一緒に拘置所を出た。その後、岸は世界でも稀な政界への復帰を果たした。巣鴨拘置所卒業生の助け合いが、その後国政選挙の特色となるのであった。


岸は、戦前の右翼とヤクザの一群全員が復帰するのに力を貸し、復帰をやりとげてしまった。


『東京アンダーワールドロバート・ホワイティング角川書店/2000年よりピックアップ:

児玉が頭角を現したのは、1930年代のこと。政府の指令によって、中国における資材の現地調達を請け負ったのがきっかけだ。


彼はまず、東京のヤクザのなかから適当な人材を抜擢して軍隊を結成し、中国の田舎で金品を略奪させている。戦後の証言によると、村に進軍したらすぐに村長を射殺させるのが、彼の手口だった。村人はたちまち従順になり、何でも彼らに提供したという。


鉄鋼や武器その他の軍需品を、日本の陸、海軍に提供した功績を認められ、児玉は戦時中の東条内閣に重用されている。


中国ではアヘンの売買も手がけ、個人的にもかなりの利益をあげた。終戦までには、宝石や、金、銀、プラチナ、ラジウムなどをごっそりため込み、日本にひそかに持ち帰っている。


『昭和期日本の構造(2.26事件とその時代)』筒井清忠講談社学術文庫/1996よりピックアップ:


石原莞爾(いしはらかんじ)が1928年に陸軍内のグループ(木曜会)で妄想的な日米最終決戦論・世界最終戦争論を発表した時の発言。

「占領地の日本軍は現地で自活できるようにしなければならない」、「日本内地より一厘(いちりん)も金を出さないという方針の下に戦争をするべきである」


(by pick-up)日本には補給しない戦争というアイデアは以前からあったのです。これが日本軍による残虐行為や兵隊の餓死をもたらした一因でしょう。