朝日新聞(2007年11月28日)「新聞と戦争」よりピックアップ:

(1939年、東京朝日新聞論説委員を務めた笠信太郎は)、高橋財政から説き起こし、大量の国債発行で「戦争即応の生産拡充」体制へ突入したと説明。インフレ防止のため、経済統制が必要だと主張した。これは、昭和研究会が「経済新体制」の柱として打ち出した考え方で…。


陸軍統制派の根本思想となったこの経済統制策は、陸軍の石原莞爾と産業部次長の岸信介によって満州国に導入された。


(しかし、内地で)財界と右翼勢力の一部が接近して統制派勢力を「アカ」と呼び、笠信太郎の本を集中的に批判した。


「経済新体制、共産主義的やり方を叩きつぶしたのは僕なんだから」そう回想する阪急グループ総師の小林一三は、第2次近衛内閣で商工相となり、商工次官の岸信介と激しく対立した。陸軍内でも行政府内でも、経済統制思想をめぐって対立抗争が渦巻いていた。


経済統制は、ナチス・ドイツの統制思想とも通底していた。


全体主義と表裏一体の経済統制はその後、東条英機内閣の岸信介商工相が仕上げることになる。