山住正己『教育史に学ぶ』新日本出版社/1981年よりピックアップ:

最初、維新とともに新政府が考えましたのは、あくまで皇学と洋学は両方の羽翼という方針でした。復古という方向ですすめていこうとする考え方が強かったことを示しています。


しかし、古いものを中心にした方針では、欧米に抗して国家を建設していくことができないという考え方が強くなってきて、1872年、ヨーロッパの学問を中心とするという方式がたてられたのです。福沢諭吉などが考えていたことを政府も受け入れざるをえなくなったということだといえます。


これからはどんな階層の者も勉強しなければならない、これから学ぶべきことは実学でなければならないということが、学制にとりいれられていきます。福沢諭吉は「実学」という言葉の横にフリガナをふって、「サイエンス」といっていることもあります。


しかし、この学校教育の内容や方法は改められていきますが、それは自由民権運動が広がっていく時期です。自由民権運動をおさえていこうという考え方が政府によってとられるようになります。学校教育を、政府の考える方向に改めていこうと考えついたのです。


1879年に教学聖旨というものが出されます。明治初期以来の教育は、知識技術の偏重に陥るという誤りを犯したので、道徳を中心にすえていかなければならない、という考え方でした。


日本の教育界では、それ以来、教育の曲がり角にくるたびに、いまの学校教育は知識の偏重に陥っている、もっと道徳教育をさかんにしなければいけないといういい方をする人が政府の周辺にあらわれたものです。


たとえば、大正デモクラシー期にも道徳水準が低下しているという指摘があり、知育偏重論がさかんになったのは、1930年代の中頃から40年代の初めにかけてという太平洋戦争の始まる時期でした。神がかった教育が行われるようになったきっかけが知育偏重論だったのです。