『科学者 その方法と世界』中村禎里/朝日選書/1979年よりピックアップ:

僕が高校の教師をしていたときの経験と、大学の教員をしている現在の経験とで、はっきり高校はいいなと思うのは、高校には位がなかったことです。僕が専任でいました高校でも主任制はありましたが、主任担当者は年中変わるわけで、単なるポジションの問題であって位階ではないのです。


文部省が持ち込もうとしている主任制度とは違っていたのです。非常に年輩の先生でも大学出たての若い先生でも、建前の上では平等であるし、非常に有能だと思われている教育者も、無能だと思われている教育者も平等であるし、上にゴマする人もゴマすらない人も平等で非常に自由である。教頭にでもなるつもりさえなければ、おもねることもないわけです。


大学では別に教授にならなくてもいいだろうという考えを皆さんはもつかもしれませが、年齢が50を過ぎても助教授ですと本当にいやな気持ちになります。外の社会もそういう位階の規準で大学教員を判別しようとします。


ばかなやつがいまして、いまだに教授になると急にいばり出すやつがいる。普通の大学の場合は、助教授を教授に昇格させるための審査は、教授だけがあたる。そうしますと上にゴマをすらなければ、なかなか上がらないじゃないかという感じがします。


研究の統制、上意下達のような条件も位階制度によって可能になっている。この位階制度を廃止することが非常に重要ではないかと思います。それから学位もそうですね。とっていないとよほど無能だと思われるから、どうしてもとりたい。そこで無理をする。それでまたいろんな問題が出てきます。


週刊金曜日(2007年7月20日)よりピックアップ:

2003年から学校職員の職層を「校長、副校長、主幹、教諭」の4段階にした都教育委員会は、6月28日の定例会で、これを6段階に格差拡大させる、都立学校管理運営規則の「改正」を強行した。これは「統括校長(又は校長)と副校長→主幹と主任教諭→教諭」とするもの。

(by pick-up)中村氏の考えとは逆に高校まで、位階制度が強化され、学校が権力行使の末端機関になってしまった。