『世界のどこにもない大学』都立の大学を考える都民の会(編)/花伝社/2006年よりピックアップ:

まず研究費について、研究費の大部分や教員の人件費として使われる一般運営交付金は、年率2.5%の効率化係数で削減されることになっている。効率化係数とは、毎年この程度の割合で経営を効率化していけるはずだという見込みにもとづいて前年度予算に掛ける数字のことである。


削減額は毎年3億円にのぼる。中期計画が終了するまでに、20億円が削減されることになる。一方、首都大「中期計画」には、企業等から外部資金として20億円を獲得するという目標が掲げれている。このことは、研究費が、将来すべて外部資金のみとなる可能性を示唆している。


企業は、自社の経営戦略として大学に研究資金を提供するのであり、大学内には、そうした資金提供の対象とならない研究領域はたくさん存在する。こうした分野では、研究費が0円という状況が起こりうるだろう。


科研費21世紀COEプログラムなども存在するが、これらは普遍的な真理追究を目的とする研究テーマを採用する傾向があり、「都市問題の解決」に特化しようとしている首都大の理念・目標とは一致しない。


こうした予算面での研究環境の悪化は、すでに現実化している。南大沢キャンパスでは、教員に配分された予算で学科全体の図書予算の削減を補填する結果、教員個人の研究費がほとんどない学科が生まれている。今後、一層悪化することは避けがたいと思われる。


首都大の教員数は、授業編成に影響が出るようなレベルにまで減少している。しかも首都大法人が一方的に教員定数を減らした上、補充に消極的なため多くの欠員が不補充となっている。首都大への非就任者は、旧都立4大学には籍があるが首都大には籍がないため、首都大の授業を担当できない。若手のスタッフほど転出する傾向が強い。このため、大学院生の実験が滞り、研究の進展に支障がでている。


2005年度末で退職した教員(非組合員を含む)にアンケートを実施し、転出理由などを調査した。転出した教員が任期制・年俸制よりも、大学の意思決定過程の抜本的改革を多く指摘していることが分かる。


公立大学法人首都大学東京は、経営組織(法人)と教学組織(大学)から構成されている。法人の長が理事長であり、教学組織の長が学長である。理事長は都知事にのみ任免権があり、学長は理事長に任免権がある。ただし初代学長は都知事が指名・任命した。


理事長の下で実務を担当するのが事務局長である。事務局長は、都庁内の人事で決定され、都知事に任命される官僚である。およそ2年で交代するものとされている。


この三役が首都大の運営に重要な役目を果たしているのであるが、大学の構成員に責任を負っていない。現場の意志とは無関係に任命されたトップなのである。首都大には理事会が存在しない。理事長は、気の向くまま運営することができる。


教授会で決めることができるのは、時間割や評価に関することに限定されている。意思決定や人事については権限が与えられていない。学部長は学長が指名することになっている。教授会は学部長が教育研究審議会に出席し、そこで決定された方針を教員に伝達する場、あるいはそうした方針にもとづいて教員に作業させる場となっている。


時間割編成の現場では、教員に対して、ある程度記入された時間割表が上から下ろされてくるという。「この時間割の空いているところに授業を埋めよ」とうわけである。教員がカリキュラムの問題に気づいても、記入済みの部分にかかわるものであれば、どうすることもできない。次善の策を考えるしかないのである。


事務局長は大学の運営については素人である。現在の理事長も大学運営について知悉しているとは思えない。学長は大学人ではあるが、巨大な組織を切り回せるだけのスタッフを持っていない。彼らが参考にするべき現場の声を聴取するシステムが制度として存在していない。


首都大にはトップに対し、構成員の集約された意見を述べ、大学の意思決定に生かしていくルートが存在しない。情報収集が恣意的なものになることは避けられない。「王の目」「王の耳」となっている教員は自分に有利な情報を吹き込むことのできる有力者である。


このような大学に「夢がもてない」として教員が流出することは、当然というべきである。

(by pick-up)無惨。


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