NHK総合テレビ(2007年8月20日)BS特集『民衆が語る中国激動の時代』よりピックアップ:

1958年、毛沢東は15年でイギリスを追いこそうと呼びかけ、大衆を動員し、急速な生産拡大策を打ち出します。いわゆる『大躍進』です。鉄鋼の増産が要とされ、農民までも駆り出されます。農村では原始的な熔鉱炉が作られ労力は鉄作りに費やされます。田畑は荒廃しました。農地を共有された人民公社制も労働意欲を失わせていきました。しかし、成果は誇張され伝えられていきます。


《私が「何か食べたい」と言ったら「鍋がない」というんだ。「鉄を作るために取られた」という》


《木材や麦わらを燃料にして鉄くずを精練しようとした。しかし火力が足りなくてちっとも溶けなかった》


《それでも党委員会にはうまくできたと報告した》


《鉄が無駄になり、報告は誇張され、成果も乏しい。党は道を誤った》


《あちこちの収穫を一つの畑に集めて生産高を多く見せかけていた》


《あのころ水増し報告は下っ端の幹部がやっていたんだ》


《でも数字が低いと殴られるもんな》


《自発的な節約を呼びかけられた。でも実際はむりやり節約させられた》


《文句を言おうものなら、「良いものを破壊する分子」とか》


《ある農村では幹部が腐りきっていた。食料が欠乏していたのに、農民はまだ収穫物を隠していると、強制的に徴収をしたため農民が飢えてしまった》


農村を視察して実状を見た彭徳懐(国防相)が毛沢東に改めるように手紙を出したが失脚させられた。


しかし、大躍進の失敗は明らかで、毛沢東国家主席の辞任に追い込まれました。1959年、国家主席に就任したのは劉少奇でした。劉少奇は現実的な改革に乗りだします。それを支えたのはトウショウヘイ総書記でした。


農村の土地の一部を個人の所有に戻し、自由市場での販売を認めるなど労働意欲を高める政策を打ち出しました。


実務派の台頭に毛沢東は危機感をつのらせます。彼らの政策を資本主義路線への転落であるとみなし、紅衛兵などの大衆動員により権力の奪還と路線の転換を目指そうとしました。それが文化大革命でした。

(by pick-up)石原慎太郎毛沢東になりたかったのだろうか。毛沢東のように現場の声を聞く耳を持たない石原慎太郎毛沢東のように大衆煽動が得意な石原慎太郎毛沢東文化大革命の代わりに『心の東京革命』という石原慎太郎。革命なんて言葉を使いたがるのは左翼から右翼に転向したブレインがいるからなのか?


石原慎太郎が「こんな大学、世界にないぞ」と自画自賛した首都大学東京は、法人化の初年度から17億円の利益を計上したと『大躍進』の成果を発表している。トップダウンの、この大学には現場の実態を聴取するシステムがなく、実際は、深刻な危機的状態にあるという(『世界のどこにもない大学』花伝社)。