日本テレビ(2007年7月22日)NNNドキュメント'07「1枚の写真が…〜横浜事件65年目の証言〜」よりピックアップ:

大正から昭和の時代、国は「出版法」「治安維持法」「国家総動員法」等つぎつぎ発令。国民の言論、思想等を統制した。治安維持法は改正のたびに重刑となった、昭和3年「結社の目的遂行のためにする行為」も罪になった。


横浜事件治安維持法違反容疑で検挙した関係者すべてを横浜市内の警察署で取り調べたことからそう呼ばれた。神奈川県警の特高警察が検挙した。


米国共産党員事件から芋づる式に60人あまりを検挙、拷問した。拷問による獄死者4人。デッチアゲがデッチアゲを生んだ。敗戦間際まで新聞・出版関係者など33人を起訴した。


「戦争に対して、グチや不平をちょっとでも友だちに話すことも反戦・反軍という形で取り締まりの対象になるわけです。一般警察官の特高化とか、全警察官の特高化が、警察内部のスローガン」


細川嘉六の論文は国の検閲をパスして掲載された。しかし、陸軍は細川の論文を共産主義の宣伝と攻撃した。警視庁は細川を治安維持法違反容疑で世田谷署に検挙した。


論文発表から2年後、改造社中央公論社は「自発的解散」させられた。


細川は警察の取り調べに屈伏しなかった。「欧米帝国主義の追随をして居れば、日本はアジアにおいて孤立するであろう」と、アジアの民族と友好を保っていかないと国は滅びると憂国の情で書いた。


細川と関係のない事件が次々検挙された。そのさいに細川と編集者たちが写った出版記念の旅行・宴会での記念写真が警察の手に入った。特高警察はその写真で、共産党再建の準備会議があったものとでっちあげた。


裁判の資料は“自白”を元に作られるが…取り調べは特高が捏造した自白を認めさせることが狙いだった。「(特高の)都合の良いように白状させ、言わしめようとして拷問する」


昭和20年8月15日、日本は戦争に敗けた。1カ月後、横浜地方裁判所は公判と判決を1日で行い、写真に写っていた人たち6人に有罪判決、容疑を認めなかった細川は起訴されず審理を打ち切る免訴になった。


拷問を受けた人々は昭和22年、特高警察官30人を特別公務員暴行傷害で共同告訴した。5年後、最高裁で3人の実刑が確定した。しかし、拷問をした特高警察官は、この年のサンフランシスコ講和条約の発効に伴う大赦で釈放され一日も投獄されなかった。


昭和61年(1986年)木村亨と平館利雄が中心となり被害者が裁判のやり直しを求める再審請求を行った。しかし、横浜地裁(昭和63年)、東京高裁(昭和63年)、最高裁(平成3年)で棄却された。理由は「裁判の記録が存在しない」というもの。裁判記録の保管は起訴した検察庁の役目のはずだ。


占領軍が来ると戦前の権力犯罪の責任を問われるので内務省が書類の焼却を指示した。判決さえも残っていない。再審の壁になっている。裁判記録を焼却したのは国だった。


平成6年、小野康人の遺族が横浜事件第2次再審請求をした。しかし、横浜地裁(平成8年)、東京高裁(平成10年)、最高裁(平成12年)で棄却された。


平成10年、木村亨の遺族が横浜事件第3次再審請求をした(横浜地裁)。平成17年再審の開始が決定した(東京高裁)。しかし、平成18年(2006年)横浜地裁は裁判打ち切り(免訴)。


免訴っていうのはなかったことにするということですからね。実際は事実があった。勝手にやった側がなかった事にするというのはおかしい」


平成19年、横浜事件第3次再審裁判、東京高裁の判決は控訴棄却。最高裁へ上告。


平成14年から第4次再審請求をしている小野の遺族は「言いたいこと言えない、普通の会話もできない恐ろしい時代がやってくる危機感で」と話した。


「拘禁二法にしろ、国家機密法にしろ、共謀罪にしろ、なぜ繰り返し出てくるのか。気がついた時には遅い、それが一番怖い」


日本で7万人以上検挙した治安維持法は、朝鮮、台湾、旧満州で、より激しい形で行われた。大東亜共栄圏を構想したが、共栄とは裏腹に弾圧した。