『中央公論』(2006年10月号)「昭和戦争」に自らの手で決着を付けよう(渡邉恒雄)よりピックアップ:

本格的特攻隊編制の命令を最初に出したのは、大西瀧治郎中将だと言われる。大西中将は、敗戦後自宅で割腹し、介錯を拒み、15時間のたうち回って苦しみ死んだ。


彼は幕僚たちの提議したこの残虐非道な作戦を決するまで1年あまり躊躇し、実行にあたっては、「これは統率の外道である」と自認して語っている。とはいえ、この作戦を隊員に指示した時の訓話は、超精神的皇国史観で貫かれ、理性のかけらもなかった。


特攻作戦が立案されたのは、大西の決断する1年あまり前(43年8月)のことで、推進者は海軍軍令部の黒島亀人第二部長、中沢佑作戦部長らであった。及川古志郎・軍令部総長は「涙を飲んで申し出を承認する。しかし、あくまで命令だけはしないでくれ」と語ったという。


立案者の中沢は戦後生き残り、講演などで特攻作戦は大西の決定であり、軍中央は考えていなかったと述べている。


特攻隊の編制は、形式的には志願で始まったが、間接的強制、そして実質的な命令に進んだ。特攻はあの戦争の美談ではなく、残虐な自爆強制の記録である。日本軍の名誉ではなく、汚辱だと思わざるを得ない。


直ちに米軍も対抗策を強化した。特攻機は目標に近づく前に、次々に撃墜された。そこで発案されたのが、人間爆弾「桜花」と人間魚雷「回天」である。この新兵器も作戦上ほとんど何の効果もなかった。


「桜花」と名づけたのは、特攻推進者の一人、源田実中佐であった。源田中佐は戦後生き残り、自衛隊の空幕長を経て、参議院議員として栄華を亨受している。


桜花特攻を発案し、上申し、実現させたのは、大田正一少尉であった。彼は当時の新聞には賞賛的に報道された。まもなく中尉に昇進している。終戦直後、鹿島灘の沖合に向け飛び立った。遺書まで残していた。ところが、反転北上して金華山沖に着水し、上陸した。にもかかわらず、「航空殉職」とされ、一階級特進して「海軍大尉」となり「戸籍抹消済」となっていたのである。実は1994年まで生き延びていた。

(by pick-up)源田実の推薦でルメイ(Curtis Emerson LeMay)は1964年、日本政府より勲一等旭日大綬章を授与された。ルメイは東京大空襲を初めとする日本の焦土化作戦の立案者であり原爆投下の命令を出した人物として知られる。