『週刊金曜日』(2007年8月24日)「日下部聡の政治時評」よりピックアップ:

先の大戦関連の書物をひもとく機会があった。軍中枢にいた人物の書き残したものは、当時と現在の日本が地続きであることを実感させてくれる。


大本営で戦争指導班長を務めた種村佐孝・元陸軍大佐の『大本営機密日誌』(ダイヤモンド社)によれば、中国戦線の泥沼化に悩んでいた陸軍参謀本部は、撤兵する方針を一度決めたのだという。


ところが、ドイツ軍がポ−ランドに侵攻、破竹の勢いで進撃を始めた。「『バスに乗りおくれるな』そんな言葉がはやりだした。陸軍の考え方にも、180度の大転換をまき起こしたのである。昭和16年から逐次撤兵を開始するとまで、思いつめた大本営が、転換して、南進論が醸成せられるに至ったのである」(昭和15年5月10日付日誌より、以下同)


翌月から東南アジアの地域事情などの情報集収を始める。作戦を研究し始めたのは、開戦の1年半前でしかなかった。


対米英開戦の直前には、陸海軍幹部と閣僚による会議が開かれ、船舶の保有量や生産量が戦争に耐えうるかどうか検討された。「一同が、数字を理解した末に決定したのか…会議終了後、帰ってきた塚田参謀次長は、私どもにその書類を渡して『よくわからなかったから、研究しておけ』とのことであった」(昭和16年10月29日)


また、堀栄三・元陸軍中佐の『大本営参謀の情報戦記』(文藝春秋)によれば、米英の情報収集を専門にする課ができたのは昭和17年4月。開戦後半年もたってからだったという。


責任の所在のあいまいさ、縦割りシステムと縄張り意識。弥縫策(びほうさく)が積み重なり、やがて組織防衛が自己目的化する。軍官僚を筆頭とする指導層の無責任体質が、アジア諸国民も含む多数の人々を死なせたのではないか。