NHK総合テレビ(2007年10月9日)「シリーズ証言記録/兵士たちの戦争/中国大陸打通・苦しみの行軍1500キロ」よりピックアップ:

太平洋戦争で1年も経たずに日本軍はアメリカ軍に敗北を重ねていきました。陸軍参謀本部は中国大陸を貫く陸上交通路の確保(大陸打通)を考えました。


当初から、兵器や補給体勢が整っていないと慎重論があったが、立案した服部卓四郎第二作戦課長は計画を変えなかった。


兵士は水もなく、ボウフラがいるような水を飲んで伝染病になって死んだ。自殺する兵士もいた。


作戦当初より食料は徴発するように命じられていました。


「徴発と名分を掲げたが、そうじゃない。日本の軍隊は野盗だった。かっぱらって食う。出発するときの命令だから。ずーっとだから。1年半。」(証言者)


しかも、この作戦は軍事的には意味のないものだった。作戦に参加した兵士は4102人。戦場で命を散らせたのは2025人。その8割近くは病や自殺。


NHK総合テレビ(2007年10月9日)「シリーズ証言記録/兵士たちの戦争/フィリピン最後の攻防・極限の持久戦」よりピックアップ:

当時ルソン島で日本軍を指揮していた山下奉文大将は補給も援軍も望めない状況におかれ食料や物資を現地で調達し、戦い抜くよう命じた(自活自戦永久抗戦)。

証言:

「(前線の兵士が)草を食べてるから早く送れ」と命令が来て…。盗んだものを送るいうても、送るものがないから、水牛や馬車を盗んできて現地に送っても、たいした量じゃないしな。

将校の陣中日記:

死せる戦友の肉をとりて食しあるを見聞す。情なき今の有様なり。

証言:

日本兵の死体をたべる日本兵を見た話)
山の中を歩いていたら、いいニオイがする。そこで3人の兵士が飯ゴウを炊いていた。10メートルほど行ったら、ここ(足)をすごいて、帯剣で、どないしたか知らんよ、それを炊いて食いよる。嘘じゃないよ。

証言:

(傷つけられた死体を目撃した話)
肉がありゃ、ほっぺたの肉食うてみちゃれと…。ほっぺたのカワが二つともないんじゃもん。おかしいわ。飢えたら、何でも食いたいと思ったんじゃろうがなあ。

フィリピンの農家から食料を調達した元・兵士はフィリピンへの慰霊の旅に何度も誘われたが行きませんでした。日本軍が自活自戦の名のもとに行なった食料の略奪。そのために多くのフィリピン人が飢えで苦しみました。(食料を調達した元・兵士は)自らの行動について、戦後、長く、話そうとしませんでした。

(by pick-up)「補給しない戦争」というのは追いつめられたからしたのではない。満州事変を始める前(1928年)、木曜会という陸軍内の会合で石原莞爾は「占領地の日本軍は現地で自活できるようにしなければならない」、「日本内地より一厘(いちりん)も金を出さないという方針の下に戦争をするべきである」と発言した。参考:『昭和期日本の構造(2.26事件とその時代)』(筒井清忠講談社学術文庫/1996)