放送大学『日本政治史('03)第7回』御厨貴よりピックアップ:
東條内閣に続いて成立した小磯・米内内閣は和平工作をするがうまくいかず、終戦にたいするステップとして木戸内大臣が始めたのが重臣が個別に天皇に意見をいうということ。近衞文麿は近衛上奏文を提示した:
日本の敗戦で共産革命がおきる。すでに少壮軍人の一部、いわゆる統制派と言われていた軍人は共産主義者であった。だからこの人たちを一掃して皇道派を中心とする軍部で建てなおさなければ共産革命がおこってしまう、と。
しかし、昭和天皇は、もう一回くらい戦果をあげなければ和平は難しいと言っていた。
『渡部昇一の昭和史』渡部昇一/ワック/2003よりピックアップ:
さて、陸軍内の右翼社会主義者たちに話を戻そう。皇道派と統制派に分かれて対立していたわけだが、生き残ったのは統制派のほうであった。皇道派が二・二六事件を起こして自滅してしまったからである。
軍部の台頭に呼応する形で、社会主義に傾斜していったのが官僚たちであった。
昭和20年2月14日、近衛文麿は、昭和天皇に上奏文を呈出する。「少壮軍人の多数は、わが国体と共産主義は両立するものなり、と信じているもののようであります。」
『歴史の真実 日本の教訓』渡部昇一/致知出版社/2005よりピックアップ:
安倍晋三ほど新鮮な感覚で受け止められている政治家はあるまい。その母方の祖父である岸信介の名もマスコミに登場するようになった。
小林(小林一三・商工大臣)は岸(岸信介・商工次官)をアカ呼ばわりしたという。アカとは共産主義者のことである。岸が共産主義者であるわけがない。この時点の岸を見れば、確かに国家社会主義の匂いがする。しかし、それはトータル・ウォーが予感される状況で、そうすれば日本を守ることが出きるかを考えた時に出てきた施策である。岸は愛国者なのである。
(by pick-up)渡部昇一は、近衛上奏文を引用して軍が共産主義者・社会主義者だったと主張する。しかし、近衛文麿は統制派が共産主義だと書いたのである。東條英機は統制派のトップであった。しかし、渡部は東條英機を共産主義者として批判はしない。
渡部昇一は、官僚が社会主義者であったと書いている。岸信介は経済官僚のトップであった。しかし、渡部は岸信介を社会主義者/共産主義者として批判はしない。
天皇の決断でポツダム宣言受諾による降服が実現したことはよく言われるが、渡部昇一は近衛上奏文を取り上げても、降服を進言された天皇が受け入れなかったことは書いていない。