武谷三男『罪つくりな科学』青春出版社、1998年よりピックアップ:

飛び級とかなんとかいう制度が始まりました。すぐれた人材が育つのか、私はおおいに疑問です。すぐれた人には、二つのタイプがあります。いかにもできるタイプと、一見とろくて「へんなやつ」です。


アインシュタインなどは非常にとろくて、口がきけるようになったのは人より遅かったし、少年時代はまるで活発でなく、高校は中退してしまい職探しもうまくいかない。けれど物理学だけは好きだった。ただし他の勉強はあまりにできないので、大学を受けても落ちてしまう・・・という調子で、まったくうだつがあがらなかったのです。


日本では、できるタイプばかりがもてはやされます。へんなやつは、小さい頃からレッテルを貼られてつぶされてしまう。発達が遅いというわけです。


企業は利潤に関しては危機感がシビアですから、少し前から、へんな社員を育てようという動きが生まれています。だたし、この段階になって独創性を発揮してもらおうとしても、子どものうちにどんどんつぶされていては追いつかない。教育のゆとりが必要なのです。それは、1年、2年の成果にこだわらないということ。

斉藤貴男『機会不平等』文春文庫、2004年よりピックアップ:

三浦朱門・前教育課程審議会会長の証言を紹介しよう。三浦氏は、“ゆとり教育”を深化させる今回の学習指導要領の下敷きになる答申をまとめた最高責任者だった。「つまり、できん者はできんままで結構。戦後五十年、落ちこぼれの底辺を上げることにばかり注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです」

(by pick-up)同じ「ゆとり」という言葉が使われても、この両者の教育観は正反対だ。日本の政策決定の過程では、同床異夢の人々が参加して整合性のない政策が実行されることが多いような気がする。毒が中和される効果もあるのかもしれないが、隠れ蓑に使われて本来なら実現しないはずの悪政が実行されることもあるだろう。「ゆとり教育」の政策実行で、どんな同床異夢があったのだろうか。