NHK総合テレビ(2007年12月5日)「その時歴史が動いた」よりピックアップ:

終戦当時、海外にいた日本人:


満洲朝鮮半島北部・樺太など:272万人
中国・台湾など:200万人
フィリピン・朝鮮半島南部など:99万人
東南アジアなど:75万人
オーストラリア・ボルネオなど:14万人


1945年8月31日、内閣と軍首脳の終戦処理会議で、海外の民間人は現地において共存させるという方針が決定した。

かつて日本政府は満洲へ開拓民を送り込んだ。政府は満洲には“手つかず”の土地があるといったが、現地の人々から農地を“安い値段で買い上げた”ものだった。


1945年8月9日、満洲ソ連軍が侵攻した。陸軍はほとんどが既に南方に移動していた。現地の開拓団から召集された男たちが残った。彼らは捕虜となりシベリアに抑留された。残されたのは女性、子ども、老人。


1946年、満洲以外では引き揚げが進んだ。引き揚げは連合国の責任で行なわれた。ソ連は日本人の引き揚げを行なわなかった。スターリンは国内復興のために日本人引き揚げをしようとしなかった。

ポツダム宣言受諾の際に日本政府がこだわったのは国体護持だけ、民間人の生命・財産をどう守るかなんていうのは考えていなかった」(加藤聖文)

満洲の日本人会の幹部は日本に決死の使者を送った。吉田茂は、その使者に自分達でマッカーサーに交渉しろと言った。


満洲からの引き揚げはアメリカ・ソ連・中国の思惑の結果、実現した。満洲中国共産党軍が入り、中国国民党軍はアメリカに援助を要請した。アメリカは国民党軍を艦船で満洲に移送した。国共両軍は満洲で内戦を行なった。


150万人近い日本人の存在は、後方支援要員にさせられるなど、予測不可能な混乱を招くおそれがあると考えられた。そこでアメリカは国民党軍を降ろした船で日本人を移動させることにした。

日本政府は港に引揚援護局を設置した。引揚げ港は18カ所。博多港では船から海に身を投げる女性がいた。外国人に暴行され妊娠した女性だった。1946年3月、当時まだ違法だった堕胎手術をする保養所という名の施設が作られた。


こうした堕胎手術は大学病院でも行なわれた。厚生省の役人が大学病院の医師に伝えた方針は、「異民族の血に汚された児の出産を考えると、これら女性の入国に際してはこれを厳しくチェックして水際でくい止める必要がある」というものだった。

ソ連はシベリアに日本人、ドイツ人、イタリア人の捕虜を抑留し、強制労働をさせた。アメリカはソ連に抑留者の早期帰還を要求した。アメリカへの求心力を強めようとしたのである。1946年ソ連地区引揚げに関する米ソ協定が結ばれた。


しかし、集団引き揚げが終了したのは1961年だった。海外にいた660万人のうち帰国を果たせたのは628万人だった。