週刊金曜日(2007年11月16日)「南京大虐殺70年怒りの大地悲しみの大河」片岡伸行よりピックアップ:

「中国の2研究者 南京事件で講演 『30万人〜40万人虐殺』に懐疑的」


張連紅と程兆奇の2人が東京財団に招かれて講演した内容を、『産経新聞』(2007年2月1日付)はそのような見出しで報じた。


週刊新潮』(2007年2月8日号)も、講演の内容について触れた。記事の後半に、次の記述がある。


中西輝政教授は、「南京大虐殺というのは、元々存在しなかったものを中国政府がプロパガンダとして出したものです。…」


篠沢秀夫名誉教授も言う。「30万人の虐殺があったというのは、あまり科学的ではありません」なにしろ、当時の南京の人口は30万人いなかったのだから、中国政府の主張には無理がある>

南京師範大学の建物の一室で、張連紅は口を開いた。「…私の発言の意図は別のところにありました」


南京軍事法廷東京裁判に先立つ1946年2月に開廷された。第六師団長で元中将の谷寿夫に対する判決文に、被害者総数についての記述がある。それによると、捕えられた中国人で日本軍に機関銃で集団射殺され、遺体を焼却、証拠を隠滅されたものは19万人余りに達する。このほか、個別の虐殺で遺体を慈善団体が埋葬したものが15万体余りある。したがって、被害者総数は30万人以上に達する、というものだ。


「私は講演の中で提案もしました。両国の学者が実証的な立場から同じテーマでそれぞれの調査・研究を発表し本にまとめたらどうかと。しかし、まったく反応がありませんでした」


「収集された資料・史料をまとめた『南京大虐殺史料集』全28巻(2006年1月)の出版に携わりました。28巻のうち4冊が日本の資料です。元兵士の日記や会議録などで、日本では未発表のものもあります。今年11月には22巻の史料集の出版を予定しています。


これらを踏まえると、『30万人』という数字は政治的な数字ではありますが、まあ妥当と思えます。とはいえ実証的な研究は今後も続ける必要がありますね」

否定論者が必ず言い募る当時の「南京の人口」については、次の点を明確にする必要がある。いつからいつまで、どこからどこまでのエリアで起きたことを指すのか。


「時期としては1937年12月4日から翌38年3月28日ごろまで。範囲としては南京城内と郊外、南京防衛線の1番外側の句容県・江寧県までを含んだエリア」


否定論者の主張は「当時の南京市の人口は軍民合わせて20万人。なぜ30万人も虐殺できるのか」というものだ。


張は言う。「20万人というのは南京安全国際委員会が認識していた安全区内に避難していた人口です。安全区と南京城内、南京行政区ではそれぞれ面積が大きく異なります。それを安全区内だけの人口だけを見て、『30万人はいなかった』などというのは子ども騙しのような議論ですね。


南京は当時の首都です。南京行政区は南京市と近郊6県を含んだエリアです。1936年当時の人口は109万人、江寧県だけでも5、60万人がいたのです」


「虐殺された人数を何人まで精密に計算できるかは、日本軍が証拠となる記録文書の大半を隠蔽・焼却してしまったため困難があるものの、今後も歴史家・研究者の課題です。


政治家や政治的な言説を弄する学者があれやこれやと言うべきではないと思います。ただし、日本軍が戦争犯罪をこの地で大規模に繰り広げたことは拭い去れない事実なのです」

(by pick-up)右翼学者や右翼メディアの恥知らずは救いがたいほどに深刻だ。