朝日新聞(2007年3月31日)よりピックアップ:

記事から:

06年度の教科書検定沖縄戦の集団自決をめぐって、「日本軍に強いられた」という内容に対し修正を求める意見が初めてついた。


「命令したかどうかは明らかと言えない。誤解の恐れがある」と指摘され、各社は「集団自決に追い込まれた」などと修正。


社説から:

文科省は検定基準を変えた理由として「状況の変化」を挙げる。だが、具体的な変化で目立つのは、自決を命じたとされてきた元守備隊長らが05年、命令していないとして起こした訴訟ぐらいだ。


当時、渡嘉敷村役場で兵事主任を務めていた富山真順さん(故人)は88年、朝日新聞に対し、自決命令の実態を次のように語っている。


富山さんは軍の命令で、非戦闘員の少年と役場職員の20人余りを集めた。下士官が1人の2個ずつ手投げ弾を配り、「敵に遭遇したら、1個で攻撃せよ。捕虜となる恐れがあるときは、残る1個で自決せよ」と命じた。集団自決が起きたのは、その1週間後だった。


TBSテレビ(2007年7月15日)よりピックアップ:

沖縄戦の研究者(大城将保)は軍による指導が住民を死に追い込んだと指摘する。


敵が上陸してきたら、お前たち股裂きにされちゃうぞ。強姦されちゃうぞ。そんなひどい目にあって恥をさらすよりも、生きて虜囚の辱めをさらすよりも、潔く手りゅう弾で自決しなさいというのが何度も何度も繰り返されて、注入され、インプットされた。これがまさに軍命だった。


軍の命令は確かにあったと証言している女性もいる。当時18歳だった宮平春子さんは集団自決で家族を亡くした。兄は軍の命令を住民に伝える役目だったが、家族たちにこう言った、「軍から明日までには上陸間違いないからその間に自決しなさいと言われているから」。


沖縄戦に関してはかつても同じようなことが起きていた。1982年の教科書検定で日本軍の住民虐殺が削除されたさい、沖縄県民が猛反発、新しい証言が出され記述が復活した。あれから25年、ふたたび沖縄戦の歴史が書き変えられようとしている。


慶良間諸島では日本軍が駐留していた島では集団自決が起きたが、日本軍が駐留していなかった前島では集団自決は起きなかった。

http://list.jca.apc.org/public/aml/2007-February/011229.html


(by pick-up)多くの証言があることを否定するならば犯罪行為である。生徒は何を学ぶだろう。罪を犯しても認めないことか?この国家がそうしているんだから。