週刊金曜日(2007年8月3日)「沖縄でなぜ集団自決が起きたのか」川田文子よりピックアップ:

家永裁判の教科書訴訟で、沖縄戦に関する次の記述に修正意見がついたことが争われた。


沖縄県は地上戦の戦場となり、約16万もの多数の県民老若男女が戦火のなかで非業の死をとげたが、そのなかには日本軍のために殺された人も少なくなかった。》


修正意見は「最も犠牲者数の多い集団自決を加える必要がある」とするものであった。「集団自決」は「日本軍のために殺された人」のなかに含まるとの原告側の主張に対し、被告である文部省は「軍人が直接手を下した殺害行為とそうでないものとでは質的な違い」があるとしたのである。


今年3月31日、「集団自決『軍強制』を修正/高校教科書/沖縄戦で検定意見」(朝日新聞)の報道に接し、慄然とした。「命令したかどうかは明らかと言えない」が修正意見の理由だったからだ。「命令」を「隊長命令」と捉え、日本軍の責任を曖昧にしている。


検定では、「当時の指揮官が民事訴訟で命令を否定する動きがある上、指揮官の直接命令は確認されていないとの学説」を修正意見の理由としている。この訴訟は、集団自決の命令を出したと記述され名誉を傷つけられたとして、梅沢裕・元第一戦隊長と赤松戦隊長の遺族が大江健三郎氏と岩波書店に賠償を求めたものだ。


沖縄の住民の「集団自決」は軍の強制と誘導なしには起こりえなかった。


渡嘉敷島では)軍の陣地の裏の谷間に集まるようにとの赤松戦隊長の指示と、手榴弾が住民に渡ったことが「集団自決」の引き金になった。


座間味島では)役場職員である防衛隊員から「玉砕するので忠魂碑前に集まってください」と伝えられた時、軍の指示を常に役場から受けていた住民は、それを軍命令として受け止めた。防衛隊員は兵役法に基づき召集され軍人の資格を与えられた補助兵で、梅沢隊長の指揮下にあったことはいうまでもない。


座間味島では日本兵から自決用の手榴弾を個々に渡されていたのだが、爆発しない手榴弾があった。親が子を、夫が妻を、兄が弟妹を、子が老親を手にかけた。米軍が上陸すれば、女性は強姦され、男性は八つ裂きにされ殺されると、住民は日本兵から聞いていた。中国戦線で日本軍が行なった残虐行為を自慢げに語る将兵がいたのだ。


梅沢戦隊長が捕虜となって米軍キャンプに連れられてきたとき、住民たちから石を投げつけられた。「住民も部下もたくさん殺して!おめおめと」。米兵が住民を制するほど、その怒りは強かった。朝鮮人慰安婦がいっしょだったことがいっそう住民を刺激した。


渡嘉敷の第三戦隊が武装解除したのは8月26日である。この間、3件の住民虐殺が起こった。


住民をスパイ視し、「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓を住民にも強要して米軍への投降を許さず、「処刑」という名目で殺害したのである。

(by pick-up)日本兵が住民をスパイ視し、殺害した事実は、「自決を軍が強制した」ということに整合すると思う。