NHK教育テレビ(2007年9月13日)「歴史に好奇心」よりピックアップ:

江戸の人口の半分を占める町人は、全体の16%の町人地に押し込められていた。江戸時代後期、町人地の人口密度は、5万5000人/平方キロメートルで世界で例をみない過密ぶり。


しかし庶民が住む場所に困ることはなかった。町民の7割は借家住い。長屋の間取りは、2.7m×3.6m。ここを家族3人で間借し、家賃は月300〜500文。平均的庶民なら1日の稼ぎで支払えた。


安い長屋がたくさんあったのは、土地の所有者が上方から進出してきた商人だったから。商人の江戸での成功の条件は御用商人になること。御用商人には担保にするために土地が必要だった。商人は江戸の土地を買い占めた。しかし、担保の土地を遊ばせておく手はないと長屋を建てた。過当競争で家賃が低く据え置かれた。


住民は公共料金(町入用)を払わなくてよかった。地主が払ったから。地主は家賃収入の半分くらいを町入用に出す例もあった。


地主が負担した経費は、町役人と補佐役の人件費、大家さんの人件費、火消などの災害対策費、上下水道の整備費、木戸番の維持費、橋の修繕費、水道代、祭礼費、寄合の会合費、時の鐘の維持費、捨て子の乳代、行き倒れ人の保護費。


鐘代などを一軒一軒から集金していたら、集金費でつぶれるので地主が払った。商売で成功すると地位に伴う出費を地主が持った。庶民は楽だった。スーザン・B・ハンレー(1939〜)というアメリカの社会学者は、19世紀のロンドンと江戸を較べて、上流階級ならロンドンに住みたいが、中流以下なら江戸に住みたいと書いた。


天明の飢饉をきっかけに、江戸には「七分積金」という社会保障制度ができた。地主が支払う町の維持費の中から浮いた分の7割を積み立てる。非常時にはそこから救済のために使った。


積立金からは、災害時のために米の備蓄に使われたり、身寄りのない老人・子どもに手当を支給したりした。教育費も安かった。寺子屋の先生はボランティア。江戸の識字率は、ほぼ100%だった。


石川英輔):現在は、金を税金で集めるが、官僚制度の維持に金がかかる。昔は、小さい組織でやっていた。制度としては不完全だったが割とうまくやっていた。最後まで黒字だった。手習いの月謝は月に200〜300文。庶民は10〜12歳になると就職する。商人なら小僧になり、向こうが養ってくれる。


3年に一度、大火があり、幕府は再建・修復工事などに巨額の公金を投入した。好景気に吸い寄せられ地方から人が集まった。江戸初期に300町だったのが幕末には1700町になった。