週刊金曜日(2007/3/24)よりピックアップ:

3月1日の鹿児島県議会で、伊藤祐一郎県知事が歴史教科書の内容に介入したことを、自ら明かにした。西郷隆盛に関し、「征韓論」だけでなく「遣韓論」も両論併記してほしいと7社に要請した。第一学習社が「征韓論」を「遣韓論」に変更した。

(by pick-up)伊藤祐一郎県知事は西郷隆盛征韓論者だったことを悪いことだと思って教科書会社に干渉したのだろうが、西郷隆盛は征韓が悪いことだとは思ってなかったのではないだろうか?


『戦争の日本近現代史加藤陽子講談社現代新書/2002年よりピックアップ:

幕末からの流れでいえば、朝鮮に対する認識が、王政復古と密接な関係をもって語られていたことを理解する必要があります。


吉田松陰は、列強との交易で失った損害を朝鮮や満洲で償うべきであると論じつつ、国体の優秀性を皇統の永続性に見出し、天皇親政がおこなわれていた古代における三韓朝貢という理想のイメージに基づいて、朝鮮服属をあるべき姿として描き出しました。


木戸孝允は)天皇親政に復したからには、朝鮮はこれに服属するのが本来の姿であるとの感覚が生じています。日本と朝鮮の関係を正すことは、木戸にとっては「御一新之御主意」を明確にし、再確認するためにも必要なことだと認識されていました。


西郷が平和論者であったかどうかは、ここでは問題にしません。興味をひかれるのは西郷が開戦までの手続き順序に、非常にこだわっていたということです。


西郷に従った鹿児島旧士族派がつくった雑誌『評論新聞』は、立憲を論じながら、同時に、英気を奮いたたせるための征韓を論じているのです。明治6年の政変時の西郷と、『評論新聞』に共通しているのは、「国家の元気」という観点です。維新当時のような国家の元気を取りもどし、国家の覆滅を回避する道としての、立憲と征韓という組み合わせです。


むしろ、自己本位な動機からきていました。

(by pick-up)尊皇論者というのは幕末、明治の頃から狂気をはらんでいたんだなあと思う。