NHK総合テレビ(2007年10月日)「証言記録/マニラ市街戦/死者12万 焦土への1カ月」よりピックアップ:

陸軍の山下奉文大将は100万人が住む首都マニラを放棄してルソン島山中で持久戦をしようとしていた。しかし、海軍はマニラ湾放棄に反対した。沈没した艦船の乗組員、負傷者、民間人などを集めて防衛部隊を作った。陸軍の部隊を加え2万4000人。


1945年1月アメリカ軍がルソン島に上陸。


2月、状況の悪化から司令官・岩淵三次少将は撤退を決断していた。防衛部隊は陸軍の指揮下にあったので、山中の陸軍陣地に参謀を派遣した。しかし、陸軍の小林修治郎参謀は、「マニラ守備を海軍の希望で決定したときの空気もあり、彼らの気持ちは十分に察したが小生は放置した」 と書いている。

死者数

日本軍 1万6555人
米軍 1010人
フィリピン人 10万0000人

元・米兵の言葉

戦争を始める奴らを最前線に立たせるべきです。

フィリピン人の女性の言葉

このインタビューが終ったら、もう二度と体験は話せません。話すと心が痛いのよ。もう60年以上前のことだけど。

(by pick-up)ひどい体験をさせられた被害者は、心の痛みから、その体験を話したがらない。加害者もまた、そういう話はしたがらない。その上、第二次世界大戦の後で、被害を受けた東アジア諸国の民衆は、革命や独裁政権下にあったので戦中の被害を外に語るような機会はなかった。


南京虐殺慰安婦強制、沖縄集団自決の強要、原爆などの被害者も語りたがらなかった。右派勢力が、日本軍の加害の歴史を改ざんしようと嘘ばかり流すので、被害者や旧日本兵の一部が証言をするようになったのは皮肉である。


被害者の口の重さに乗じて、加害を否定するのは本当に不道徳なことである。