放送大学(2007年9月19日)森川輝紀「教育の社会文化史('04)」よりピックアップ:

愛国心の涵養と能力に応じた教育制度をいかに構築するかが、森有礼の課題となるわけです。学校種別の目標を明確にし、国家的エリート、地方的エリート、一般国民の三層構造の制度を構想します。


万世一系天皇と共にあることで外国の侵略を受けたことがない事実に誇りを持つ、この事実を愛国心の元手としなければならないとの結論を導き出すのです。身体訓練の方法によって忠君愛国の精神の形成を図ろうとするのです。1889年、帝国憲法発布の日、森有礼は暗殺されます。

1890年、徳育強化のため忠孝主義の教育勅語が成立します。直接的契機は地方長官会議での徳育涵養の議につき建議がまとめられたことでした。背景には国会開設を求める地方政情の不安定、秩序の乱れへの恐れ、森の機能主義的教育論への違和感があったと言えます。元田永孚ら教学派の仁義忠孝主義の国教論に重なって、教育勅語成立へと急展開していきます。


山縣有朋指導力を発揮します。山縣は軍人勅諭により天皇の軍隊としての統一性を形成することに成功していました。忠孝主義による臣民の形成にとりくむことになります。草案執筆には山縣の要請で井上毅があたることになります。

井上毅元田永孚の仁義忠孝主義の国教論を、近代国家における国家の中立性(国家は国民の内面に干渉してはならない)の原則に反する、と批判していた。風俗の乱れを徳育問題に還元する認識の在り方を批判していました。立憲体制の構築に参加してきた井上にとって勅語草案作成を受けることは苦汁の選択でした。


君主は臣民の心の自由に干渉すべきではない。立憲主義との整合性のため政治上の命令と区別して、天皇の著作・広告の体裁をとるべきだとしています。文部省への下付もすべきではないとしている。政治上の命令と解されることを恐れてのことでした。


井上毅は、風俗の乱れは政治と政治家の解決すべきもので、一枚の文書でそれをなすなど、もってのほかと述べているのです。起草者・井上は、教育勅語立憲主義と矛盾する可能性を熟知し、政治的問題を徳育問題に基因させることを恐れていたわけです。

教育勅語は3つの部分から構成されます。第一の部分は、忠孝は国体の精華だから教育の基本でなければならないと述べます。第二の部分は、日常的な道徳が天皇への忠に従う下位道徳として位置付けられます。第三の部分は、この勅語が普遍的なものだと確認されることになります。


教育勅語は1890年から全国の学校に下賜され学校儀式の場を通じて神聖化されていきます。

帝国憲法教育勅語の成立によって、近代化のための国民教育の体制整備が1900年代に進んでいきます。農村を中心とした自然な時間・身体とは異なる、近代の身体と近代の時間の形成が課題となります。共通の時間を持つ集団的な機敏な身体性が求められることになります。


日本の伝統的な身体動作はナンバ歩きという右足と右手を同時に踏み出すものでした。手足をそろえた行進など思いもよらないものでした。学校の一斉教授がなりたつには集団的、統一的身体性が求められることになります。


身体の教育による国家意識の形成に着目したには森有礼でした。師範学校に兵式体操と寄宿舎教育を導入しました。

(by pick-up)石原慎太郎安倍晋三など右派による、このところの教育改変の動きは、日本を明治時代に吹きとばそうとしているようだ。時代錯誤。


森有礼愛国心の論理によるならば、天皇の下で徹底的に戦争に敗けた現在、天皇愛国心の元手にはならないはずだ。


マスメディアでは、「日本人は優秀だ」と繰り返される。この過剰な自尊心の裏には偏見もある。私が学生だった頃、研究室の後輩が、韓国は日本に追いつけない、と断言した。生物学を勉強している人間が、そんな偏見を持つとは思っていなかったのでがっかりした。日本人と韓国人の素質にどれほどの違いがあるというのだろう。日本人は、ちょっと昔は、西洋式行進さえうまく出来なかったのに。日本が、昔から現代のような社会だったわけではないのだから他国が同じようにできないとは言えないだろう。


現在、韓国には日本よりも有利な点が一つある。天皇制のようなお荷物がないことである(そうなった理由を知らないで言うのではない)。