『科学』(2007年5月号)特集《競争》にさらされる大学よりピックアップ:

池内了苅谷剛彦「果たして大学は”役たたず”だったのか」

(池内):法人化によって国立大学法人に困難な状況が、とくに財政面での締めつけによって生じています。


(苅谷):もともと日本の大学は、市場化されている部分が大きい。法人化は、そこに輪をかけて競争を入れようという話でしょう?先進国のほかの例でも反省が生じているときに、日本では全部競争原理・市場原理でやってしまえという話になってきているわけです。


(苅谷):日本の大学生の75%が私立大学にいます。先進国では珍しい私学優位の高等教育の制度です。国立大学が、非常に高い授業料を取っている。これも先進国では飛び抜けて家計依存の高い大学教育システムです。


(池内):1991年に大学設置基準の大綱化がありましたが、あの頃から改革、改革、改革と…。大綱化があって、教養部廃止、大学院重点化、COE、そして法人化でしょう。何か1つのことをやったら10年ぐらいは様子を見ないと駄目なのです。


(苅谷):たぶん、この先危ないぞと、少し先が見えたときに、どうやったら得をするか考えて行動した人たちが、大学人のなかに何割かいたのです。大綱化もそうですよね。うまくいけばいい方向に向かったはずなのですが、結果としては、専門教育を開始する時期を早めたり、狭めたりする方向に向かわせてしまった。


重点化もそうです。予算が何%増えるから、大学院生を増やして、皆が大学院の教員になれると…。10年経てばどん詰まりになるのはあたり前です。短期間には、皆が飛びつくエサがあったのです。


法人化もそうです。いままでは、文科省の許可がなければ何もできなかった。それが法人化で自由になるかもしれない。しかも外部資金も取ってこられるし、「何かできるかもしれない」というので、また動く。


そういうことが、連続的に起きてしまったから、飛びつく人たちはそれぞれ違う人たちだったのだけれども、大学全体を見ると、改革、改革できてしまった。周辺にいる人たちはどんどん疲れてしまう。


これまでの検証どころか、そんなことはもう要らない、というようなある政治的な決断をしてしまったのではないですか。僕は、データを出してものを言ってきましたが、検証など「要らない」と言われてしまうと…


羽田貴史「国立大学法人の財務をどう読むか」

世界的に見て、日本はアメリカをも凌ぐほど私立大学の比重が異常に大きい。ヨーロッパにおいては、高等教育は政府の責任において行われるのが当たり前であり、市場メカニズムが導入されていても変りはない。


各国政府は高等教育に対する財政出動を強化しているのに日本は停滞している。1人当たり経費は97年では世界の10位以内だったのに、いまや13位に後退している。


白楽ロックビル「法人化 四歩下がって一歩前進」

少子化理科離れ、予算削減、大学タタキで、病んでいる。ここ数年、閉塞感があり、大学の居心地が悪くなった。


まず、筆者の年収が減ったことだ。研究費も減った。外部から競争的資金を獲得するよう強く要請されている。競争的資金を否定しないが、配分に問題も多い。教育の負担は増えた。非常勤講師の数が半減した。学科教員だけで生物学の全分野を教育できない。ここ2年間に学科教員が2人、停年退職したが、その補充は認められていない。会議も雑用も増えた。数割増の印象だ。書類の量も増えた。


会計事務は大きく改善された。それで、トータルの変化は、「四歩下がって一歩前進」の印象だ。


福江純「教育系大学で起こっている現象」

法人化後の教育系大学では、基幹大学や大きな研究所では想像もつかないほど、”ひと・もの・かね”のどれも劇症悪化している。


まず教員数だが、半減しつつある。


つぎに、講義や会議や設備だが、講義負担もぐっと増えている。会議に至っては恐ろしいほどに増殖している。上下の階層構造が増え、意思決定が複雑化したためだろう。


さて運営交付金(旧校費)だが、法人化以降は5、6割に激減した。


福田正己「法人化のもとでの研究業績評価」

国立大学法人化前年に、スイス連邦工科大学(ETH)に数ヵ月滞在した。日本の国立大学の法人化について、なぜ必要なのかと問われることがあった。逆にETHが国立大学である必然性を問うたところ、ETHの研究と教育はスイスの自立の根幹であり、保護し支援するのは当然だからという答であった。憲法の中にETHの運用規則を記すことは、政治家や官僚に干渉を受けないためだという。


帰国後カリフォルニア大学のある学部長が札幌を訪れた。やはり日本の大学の法人化が話題となった。彼は二十数年前のカリフォルニア大学の組織改革の結果を照らし合わせ、日本の国立大学の法人化は失敗すると断言した。


外部からの資金に依存する体制では、長期的な見通しでの研究や教育は困難である。また業績評価も短期的にならざるを得ないという。さらにこう付け加えた。「カリフォルニア大学では28名のノーベル賞受賞者がいるが、受賞時点でアメリカ国籍の大学教員は11名である」。つまり、ノーベル賞級の研究業績は多くはヨーロッパに依存している。

(by pick-up)最終的に破綻した時に誰が、どうやって責任を取るのだろうか?